『火垂るの墓』野坂昭如の死因は心不全|脳梗塞闘病と妻が看取った最期
日本文学界に不朽の足跡を残し、今なお世界中で愛され続ける名作『火垂るの墓』や『アメリカひじき』の原作者である作家・野坂昭如(のさか あきゆき)氏。直木賞作家であり、歌手、作詞家、タレント、さらには参議院議員としても活動した規格外の文豪が、85歳でこの世を去ってから歳月が流れました。
昭和から平成にかけて強烈な存在感を放ち続けた彼が、どのような晩年を過ごし、どのような最期を迎えたのか。10年以上に及ぶ過酷な闘病生活と、長年連れ添った妻・暘子(ようこ)さんが明かした最期の真実、そして彼が遺した強烈なメッセージについて、当時の記録と関係者の証言をもとに紐解きます。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:野坂昭如氏の直接の死因は「心不全」。2015年12月9日夜、東京都港区の自宅で意識を失っているところを発見され、搬送先の病院で逝去した。
- 要点2:2003年に脳梗塞を発症して以来、12年間にわたり重い後遺症と闘病。右半身麻痺や言語障害を抱えながらも、妻・暘子さんの献身的な介護と口述筆記で執筆を継続した。
- 要点3:大島渚監督との乱闘劇や政界進出など破天荒な伝説を残す一方、戦争の愚かさを訴え続けた反骨の作家として、その精神は今も色褪せることなく受け継がれている。
【死因の真相】野坂昭如の最期と訃報|2015年12月9日、自宅で迎えた急変
野坂昭如氏の直接の死因は「心不全」でした。2015年12月9日の午後9時過ぎ、東京都港区の自宅寝室で意識を失って倒れているところを妻の暘子さんによって発見され、すぐに救急搬送されましたが、同日午後10時33分に病院で息を引き取りました。85歳でした。
当時の報道や暘子さんの著述によると、当日の夕刻もいつも通りに夕食の介助を受け、好物を口にしていたといいます。体調が急激に悪化する予兆はなく、まさに眠るように意識を失った突然の急変でした。長寿を全うした大作家の訃報は、各メディアで速報として大々的に報じられ、文壇のみならず政界や芸能界からも哀悼の言葉が相次ぎました。
自宅で静かに迎えた最期は、かつて昭和のメディアで暴れ回っていたエネルギー溢れる姿とは対照的でありながら、家族に見守られた穏やかな旅立ちでもありました。
12年間に及ぶ脳梗塞との闘病生活|過酷なリハビリと不屈の執筆魂
野坂氏の晩年を語る上で避けて通れないのが、2003年に発症した脳梗塞との闘いです。当時72歳だった野坂氏は、自宅で突然倒れて緊急入院。一命は取り留めたものの、右半身の麻痺と言語障害という重い後遺症が残ることになりました。
言葉と思考を武器にしてきた作家にとって、話すことや書くことの自由を奪われる試練は想像を絶するものでした。しかし、野坂氏は決して筆を折りませんでした。過酷なリハビリテーションに励み、わずかに動く左手で文字を打つ練習を重ね、言葉がうまく発せない状態になっても、頭の中にある情景や批評を絞り出すように伝え続けたのです。
毎日新聞での長期連載コラム『七転び八起き』など、病に倒れてからも社会への提言や自身の老い、病との向き合い方をユーモアと痛烈な批判精神を交えて発表し続けました。病魔に侵されてもなお失われなかったその創作意欲と反骨精神は、多くの読者や同じ病に苦しむ人々に勇気を与えました。
妻・野坂暘子と家族の献身|二人三脚で支えた介護と晩年の様子
過酷な闘病生活を支え抜いた最大の功労者が、元宝塚歌劇団(芸名・藍葉子)の妻・野坂暘子さんでした。発症からの12年間、暘子さんは自宅での介護を中心となって担い、夫の手足となり、声となって生活のすべてを支えました。
言葉が不自由になった野坂氏の細かな表情の変化やわずかな発声から意図を汲み取り、原稿の口述筆記を手伝うなど、二人の関係は単なる夫婦の介護を超えた「創作の共同作業者」でもありました。娘たち家族のサポートを受けながら、自宅で過ごす時間を最優先にしたケアが続けられたのです。
暘子さんは後に上梓した手記の中で、介護の日々の苦労とともに、病を得てからの夫が見せた不器用な感謝の情や、衰えゆく身体の中で最後まで輝いていた知性について愛情深く綴っています。破天荒で知られた作家が晩年に見せた穏やかな人間味は、家族の揺るぎない献身があってこそのものでした。
直木賞作家としての金字塔|『火垂るの墓』と『アメリカひじき』に込めた魂
野坂昭如氏の作家としての地位を決定づけたのが、1967年に発表され、第58回直木賞を受賞した『火垂るの墓』と『アメリカひじき』の2作です。
特に『火垂るの墓』は、自身の戦争体験が色濃く反映された自伝的小説です。1945年の神戸大空襲で家を失い、幼い義妹を自らの手で餓死させてしまったという消えない罪悪感と痛恨の思いが、主人公・清太と妹・節子の悲劇的な物語へと昇華されています。高畑勲監督によるスタジオジブリのアニメーション映画版は、世界中で反戦文学・映像の最高峰として評価され続けています。
一方の『アメリカひじき』では、敗戦後の日本人に植え付けられたアメリカへの強烈な劣等感と憧憬を、独自の猥雑でダイナミックな文体で描き出しました。焼け跡の匂いと飢餓感を原体験に持つ「焼け跡派」の代表として、日本の戦後社会の欺瞞を突く作品群は、現代においても強いリアリティを持って読み継がれています。
破天荒な伝説と多才な経歴|大島渚との乱闘事件から政界進出まで
野坂氏の魅力は、文壇の枠に収まりきらない強烈なパーソナリティと多面的な才能にありました。作詞家としては童謡『おもちゃのチャチャチャ』の補作詞を手掛け(レコード大賞童謡賞受賞)、歌手としては『黒の舟唄』を情感たっぷりに歌い上げてヒットさせました。
メディアでの破天荒なエピソードにも事欠きません。中でも有名なのが、1990年に開催された映画監督・大島渚氏の結婚30周年パーティーでの乱闘事件です。祝辞の順番を長く待たされたことに憤慨した野坂氏が壇上で大島監督を殴打し、大島監督もマイクで殴り返すという前代未聞の応酬は、テレビのワイドショーで連日放送され伝説となりました(※後に両者は和解しています)。
さらに1983年には参議院議員選挙に出馬して当選を果たし、田中角栄元首相の金権政治を批判して新潟3区から衆院選に打って出るなど、常に権力に立ち向かうアジテーターとしての生き様を貫きました。理屈を超えた行動力と情熱こそが、野坂昭如という表現者の真骨頂でした。
【野坂昭如の死因】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:野坂昭如さんの直接の死因は何でしたか?
A1:直接の死因は「心不全」です。2015年12月9日の夜、自宅で意識不明となり救急搬送されましたが、病院で死亡が確認されました。享年85でした。
Q2:脳梗塞で倒れてからの晩年はどのような生活を送っていましたか?
A2:2003年の脳梗塞発症後は右半身麻痺と言語障害の後遺症が残りましたが、過酷なリハビリを続けながら自宅で療養していました。妻・暘子さんのサポートを受けながら、口述筆記や左手を使った執筆により、亡くなる直前までコラム連載などの執筆活動を継続していました。
Q3:『火垂るの墓』の清太と野坂昭如さんの実体験には違いがありますか?
A3:大きな違いがあります。作中の清太は妹想いの優しい兄として命を落としますが、野坂氏の実体験では、極限状態の飢えの中で妹の食糧をつまみ食いしてしまった経験があり、自分だけが生き残って妹を死なせてしまったという深い後悔が生涯の原動力となっていました。『火垂るの墓』は、愛せなかった妹への鎮魂と贖罪のために書かれた作品です。
まとめ:稀代の文豪・野坂昭如が遺したメッセージと現在への警鐘
85年の波乱に満ちた生涯を心不全という形で閉じた野坂昭如氏。脳梗塞という過酷な病に倒れ、自由な発語を奪われながらも、最期まで社会の不条理を鋭く見つめ、ペンを握り続けました。
彼が終生こだわり続けたのは、「戦争の悲惨さを風化させてはならない」という強い危機感でした。戦火の中で家族を失い、焼け跡から立ち上がった経験を持つ最後の世代として、国家の暴走や平和の脆さに対して鳴らし続けた警鐘は、国際情勢が不安定さを増す現代において、ますますその重みを増しています。
破天荒な伝説とともに語り継がれるその生き様と、命を削って遺した言葉の数々は、これからも色褪せることなく私たちの心に問いかけ続けます。 (出典: 野坂 昭 如 死因(Yahoo!ニュース))